なぜ、国立公園にガールスカウトのキャンプ場があるのでしょうか
今日6月8日は「戸隠を想う日」です。
1958(昭和33)年6月8日に、日本連盟の清水総主事・三角主事・洲崎キャンプ委員長(いずれも当時)が戸隠を視察し、キャンプ場の場所を決定する契機となったことから、2016年にこの日を「戸隠を想う日」として制定しました。
視察のきっかけは、長野県の藤井のぶさんが戸隠を紹介したことからでした。1978(昭和53)年に発行された『ガール・スカウト 戸隠キャンプ20年』に掲載された藤井さんの手記から、その視察の前後と、その後、初めて戸隠でガールスカウトがキャンプしたときの様子を紹介します。(年や役職名、表記は原文のまま)
藤井のぶ(1903~1995)
長野県第4団、第19団団委員長。長野県支部長、財務委員長などのほか、日本連盟副会長などを歴任。
戸隠へ向かって
その頃、私は、ガール・スカウト日本連盟が毎年のキャンプ行事計画のたびごとに、キャンプ場探しに苦労していらっしゃることを承っていたものですから、昭和32年の秋のこと、長野で開かれた指導者養成講習会の折、清水俊子総主事に戸隠のことをお話ししました。「長野県には戸隠という霊峯があって、その麓には広い広い牧場と未開の原野がありますよ。私の子供は親戚の子供たちに誘われて、毎年キャンプをした時代があります。春になったら一度視察なさいませんか。」と申し上げたのです。これがそもそものキッカケとなったのでした。
翌33年6月8日、清水総主事と三角信子主事と洲崎いつ子キャンプ委員長が視察に派遣されることになりましたので、私は、長野市教育委員会と社会教育課にご相談し、その結果、市の観光課と戸隠牧場とも連絡をとりご案内役をご依頼して、第一回の視察が行われました。山や雪どけの後で道が悪いからと、市観光課長鈴木さんのご配慮でジープを出してくださいました。鈴木さんのご心配通り、橋などのない川の浅瀬をジープで渡り、雪どけ水にすっかり洗われて石のガラガラした道を、ガタガタゆられながら、長野市営キャンプ場入り口までやっとたどりつきました。
そこには、雪がこいをされたボロ小屋が一軒ありました。それが、長野市営キャンプ場の管理小屋だったのです。現在の村営キャンプ場売店の前身だったのです※1。キャンプ場の中を通りぬけて、細い山道に入りました。原始林にかこまれた暗い道で、枯れ葉が厚々とかさなっている、しめった道でした。熊でも出そうな、山気のおそう道を奥へ奥へと入って行くと、急に明るくパッと開けてきました。目の前に屏風のように戸隠表山が険しくそそり立ち、その前には白樺や、ぶなや、にれの密林を背景にし美しい緑の草原がひらけているのです。みんなアッと歓声をあげて、しばらくそこに座り込んでしまいました。地元の誰もが、そこに、このようなかっこうの場所があるなど、予期してご案内をしたわけではなかったのです。
※1 当時は戸隠村村営キャンプ場。現在は長野市営キャンプ場となっている。
東の方は広い広い牧場、北の方は戸隠山の麓まで密林が続き、西の方は膝までもつかるほどの一大湿地帯で、相当量の渓流の音もきこえてきました。南の方は700メートルくらいのなら、ぶなやくぬぎ、にれ、白樺のうっそうとおい繁る緑林で、そこを経て市営キャンプ場に通じる細い道が一本あるだけです。その道がくるとき通った道です。そのキャンプ場には管理人小屋があって、シーズンには売店も出るし、食糧品の取り次ぎも頼めます。牧場入り口には牧場管理人小屋があって、ここにも管理人が常住しております。国道からの入り口には営林署の管理人小屋もあって、特設の専用電話がありました。国道には、戸隠中社と野尻湖間のバスも一日数本定期的に出ています。戸隠中社へは6km位の距離で、そこからは長野行のバスが2時間おき位に出ていますし、宿坊も診療所もあり、タクシーも電話もあるので、非常の場合にも安心でした。それに加えて、素朴な土地柄の、温かい人情の方々にふれられることが、一層の安らぎを覚えさせてくれるだろう、とも考えられました。
さて、水はということになりました。二、三カ所に相当量の清水のわいているのを見つけました。その清水をせき止めれば大丈夫ということになり、その水量でも間に合わない時には、西の方に音を立てて流れている渓流からホースで引いてきてもよいとの考えが出て、水の心配もなくなりました。
事前の下見もせずにご案内してきたのに、余りにも条件が整いすぎているのでこれは夢ではないかとさえ思ってみるほどでした。昔の人ならば、これこそ神様のお導きかもしれないというところでしょうが、そんな気持ちにならざるを得ないほど、しみじみとする思いでした。昼下がりには越水高原に下り、飯縄山麓を歩いて視察を続けました。ジープの天井に頭をぶつけながらデコボコ道を走るのですが、真っ赤に燃える山つづじのトンネルを通りぬけ、通りぬけして視察を続けました。しかしながら、すべての条件から見て、牧草隣接地の、現在の場所が最高ということに落ち着いたのでした。
一行が帰京されてからまもなく、その年つまり昭和33年のキャンプ行事は、戸隠ですることに決定されて、その通知を受け取りました。そこで早速、長野市の社会教育課、観光課、地元戸隠村役場と連絡をとり、営林署、営林局に、土地借用願いの申請を出しました。それは6月のことです。その頃、私は水のことが脳裏をはなれずにおったのです。私が子供の頃長野には上水道がありませんでした。井戸水を濾過して、その栓をぬいて冷たい水を飲んだ経験を思い出したのはその時でした。その四斗樽で作った濾過桶のことを思い起こしましたので、酒蔵の若衆を呼んで相談の上、若衆をつれて現場に行き現場の様子を仔細に視察したのち、300人分の水の確保について話し合いました。その結果、チョロチョロと流れている清水に土壌を積んで、せき止めてダムを作り、そこから直径7.5cmのゴムホースで水を濾過桶に引き入れ濾過した水を飲口から半切(一坪大のステンレスの桶)にためて、それをひしゃくで各自がバケツに汲みこんでゆく、という方法を思いつきました。その為に必要な道具を用意して、私は待機していたのです。
このアイデアは、ガール・スカウトにふさわしい素朴さであり、よい思いつきと意外に好評でした。
第1回戸隠キャンプ
いよいよ(昭和)33年7月25日でしたか、日本連盟の一行先発隊がトラックにキャンプ用資材を満載して、雨の中を戸隠に向かいました。私の家からは、水場作りの材料を小型トラックに積み、若衆4、5人をつれ武捨陸平という現場長がリーダーとなって、これも戸隠に向かいました。すでに三日も雨は降り続いておりました。そのうちに、戸隠から電話がありまして、牧場の入口まで来たけれども、営林署からの許可書がないので入れません。牧場入口でストップです。という知らせでした。驚いて市の社会教育課、観光課、村役場に電話をし、営林署、営林局にも電話をするなど、たちまちの大あわてです。不慣れなこととはいいながら申請書さえ出せばそれで良いものと思い込んで許可制のあることを知らなかった点などをおわびしながら、何回となく電話をし「各地からはすでに出発している団もありますので」と訴えて懇願をかさねました。最後には「営林署は木を育てる所です」とどなられたので、こちらも「木を育てるのと人間を育てるのと、どちらが大切ですか」とついどなってしまいました。しかし、結局「しかたがない、今年だけですよ」といて許可をいただけた時には、思わず合掌してお礼を申しました。
急遽、その旨を戸隠へ電話をしました。戸隠では三日も降り続いた雨のため、牧場はぬかるばかりで、とてもトラックは動きそうもないからと、馬力を用意して、許可の吉報を待ちかまえているということでした。私は雨の中を現場に急行しました。既に荷物を馬車に移し、何回にもわけて運び込んだということでした。今のように道などのない、山芝の原の草の根方をひろいながら、むしろを敷いたり、枯れ枝を敷いたりして、車輪が土にめり込まないように梶を取り取り、車を進ませるのは容易な作業ではなかったということでした。そんなことで予定が遅れ、水場造りも昼下がりになってから始められたため、夕暮におよんでようやく完成し、長野に帰ったのは8時過ぎでした。冷え込んでくる山雨の中の作業で皆ビショヌレになり、さすがのつわ者どももすっかり風邪をひいてしまいました。
一方到着したスカウトたちの対策が練られ、ひとまず、中社の宿坊に交渉して一泊させることに決定しました。今は故人となられた、神原様(宿坊神原旅館、ご主人は元村長現村会議長)奥様のお口ぞえで5,6軒の宿坊が快く親切に泊めてくださいました。翌日には朝霧とともに晴れ上がり、すがすがしい戸隠高原には久しぶりに小鳥のさえずりも賑やかに、絶好のキャンプ日和となりました。甲斐甲斐しく本部員、リーダーたちによって用意が整えられ、受け入れを待ちました。スカウトたちは、私どもが最初に通った緑林の中の細い道を通り抜けて、キャンプ場に入って来ました。本部用テントも、本部衛生、資材、食糧、といくつか立ち並び、ポールも立てられ、国旗、連盟旗は清らかな戸隠高原に翻るのを見たときには、感無量でした。小さなスカウトたちを迎え入れ、開会式に参列したときには、涙で、一言のことばも出ない程、ただただ感謝の祈りが込みあげてくるだけでした。
長野で初めて迎えたガール・スカウトの総てに対して、地元では県庁の係の方も、市の関係者も、村の方々も、営林署の係員もすっかり好感を持たれ、翌年からは大した説明も要せず、こころよく貸してくださるようになりました。
ガール・スカウトの誠実さとスマートさをご理解いただけ又活動内容についても深くご賛同いただけたものと感じました。
一つ何かをするのにも、申請を出して営林署、営林局、厚生省と廻り、厚生大臣の許可がなければできないことを、次々と必要にせまられて成しとげて来られました。この20年間は大変でした。
どんなささやかな水にも水利権の有ること、電灯一つ引くにも無灯火地域対策の有ること、電話の架設にしてもたくさんの方々の支持が必要であり、道路にしても、来る年も来る年も陳情を重ねながら、たくさんの方々のご厚意ご支援によって、今日こうして整えられたものであることを想いますと、20年来の、年々の積み重ねの大切さを、今さらのように有難く大切に思われます。日本連盟の唯一の宝である戸隠キャンプサイトの真価を発揮して、より豊かに、より深いスカウト精神錬磨の場となりますことを願います。
『ガール・スカウト 戸隠キャンプ20年』p.26~p.30より
1958年、1959年と2回この地でキャンプをおこない、戸隠がキャンプに最適な環境であることを確信した日本連盟はここにセンターを建築することを決め、全国から寄付を集め、1960年に実現させたのでした。
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